CDプレスの系統
ダンボール箱を抱えた人々が次々とビルの中から出て来る。
二○○八年九月一五日の光景である。
ビルから出て来た彼らは、何かを摘発に来たわけではない。
捜査当局の人間たちだということではない。
ごく直前まで、ある投資銀行の従業員だった。
その投資銀行の名はリーマン・ブラザーズ(以下、リーマン社)。
同社の突如の倒産に誰もが息を呑んだ。
無表情で昨日までの職場を立ち去る従業員たちの映像を目の当たりにして、世界中が驚悟した。
「勝ち組の彼らにも、そんなことがあるのか。
」「まさかこんなことが起こるなんて。
」そんな思いで彼らの姿を見守った人々が多かったに違いない。
リーマン・ショックに揺れるニューヨーク証券取引所では、トレーダーたちが目をつむり、頭を抱え、唇を噛む。
さながら、良く出来たドキュメンタリー風ビジネス・ドラマを見るような光景が、連日連夜、世界中のテレビ画面を席巻した。
我々は、一九二九年にタイムスリップしたのか。
ニューヨーク株の大暴落が大恐慌への幕明けを告げたあの日に逆戻りしたのか。
そう錯覚するようなニュースが次々と新聞紙面を賑わせる。
しかし、実際には今は一九二九年ではない。
二○○八年である。
一九二九年からおよそ八○年の時が経ち、世はいまやグローバル時代である。
倒産したリーマン社は、まさにグローバル時代の金融ビジネスを象徴する存在だった。
華麗なマネーゲームの名手であった。
だが、その上手の手からいったん水がこぼれ始めれば、ショック死までの展開はあっという間であった。
一体何が起きたのか。
人々は、なぜ、突然、ダンボール箱とともに職場を追われることになったのか。
しかも、いまや、世界中でこのような光景が繰り返されることになりそうな情勢だ。
現に、日本でも、企業の派遣従業員たちが突如として解雇を通告されるケースが続出している。
彼らは宿舎からも即刻の立ち退きを求められて困惑し、荘然自失状態に陥っている。
起こらないはずの「まさか」が起こった。
やって来ないはずだった狼がやってきた。
それが現状だ。
これから何がどうなっていくのか。
ひたすら、固唾を呑む地球経済である。
今回のテーマは、「グローバル恐慌」である。
二○○八年秋に幕が開いた金融と経済の大波乱を何と命名するか。
さしあたり、「世界金融危機」という言い方が定着しつつある。
確かに、状況は危機的だ。
巷には危機感が満ちている。
それは間違いない。
だが、どうも、いまひとつ納得がいかないものがある。
「危機」の語感にどうしても違和感が残るのだ。
そこで、ここでは「恐慌」という言葉にあえてこだわってみることにした。
「危機」に違和感を持つ理由は二つある。
第一に、危機の意味を辞書で引けば、「大変なことになるかも知れないあやうい時や場合。
危険な状態」)。
今は「大変なことになるかも知れない」時だろうか。
そうではなくて、もう既に大変なことが起きてしまっているのではないか。
さらに、「危険な状態」の「危険」についても辞書を引いてみると、「危ないこと。
危害または損失の生ずるおそれがあること」となっている同前)。
今、経済的危害と損失は「生ずるおそれがある」段階なのか。
アメリカで大手投資銀行が破綻し、多くの人々が職を失った。
破綻には至っていない金融機関たちも、大量の人員整理に着手し始めている。
巨大自動車会社が資金枯渇の危機に瀕して公的救済を求める悲鳴を上げた。
欧州でも、主要企業が同様の窮地に追い込まれている。
「いざなぎ越え」が暗一伝された日本の長期景気拡大もついに終わった。
驚異の成長の国、中国も、大型景気対策が必要な経済状態に陥っている。
かくして、損失は地球経済の津々浦々で既に発生している。
「生ずるおそれがある」段階はもう通り越している。
身から出た錆第二に、危機という言葉には、どこか他人事のような語感がある。
外からやって来る危険。
そんな感じがする。
例えば、「石油危機」という言い方がある。
ここに「危機」という言葉を使うのはよく解る。
石油価格の高騰という外生的要因によって、国々の経済が危険にさらされるというわけだ。
誰かがどこかで仕組んだ悪だくみとか、天災や環境激変などの突発事によって、無事の人々が危険にさらされる。
それが「危機」にまとわりつく語感である。
それに対して、現状はどうか。
今、我々が直面している混迷は、外からやって来た危険だといえるか。
確かに、突然の株価暴落のおかげで、自分は何もしていないのに大損を蒙った人々にとっては、今回の顛末はまさに外生的ショックだろう。
だが、そのような株価暴落の原因をつくりだした金融機関や企業たちの経営失調は、多くの場合は外生的ショックによるものだったとはいえない。
基本的には身から出た錆だったケースが大半である。
リーマン社の倒産にしても、公的救済に身を委ねざるを得なくなった世界最大の保険会社、AIGのケースにしても、ことの本質はまきしく身から出た錆だ。
いずれも、企業としての経営判断の狂いがもたらした内生的破綻である。
アイスランドという北極圏の小国は、ひたすら金融立国路線を逼進した結果、IMF(国際通貨基金)からの資金援助を必要とする状態に追い込まれている。
それこそ、国家倒産の「危機」が眼前にちらつく日々を迎えているのである。
アイスランドの大手金融機関は、かつては地場中小企業への融資を本務とする健全経営に徹していた。
その彼らが一九九○年代半ばからはグローバル金融の舞台に上がり、リスクとチャンスをお手玉するビジネス・モデルに経営の舵を切り替えた。
その結果が今の状態である。
彼らとて、これを人のせいにするわけにはいくまい。
こうして、企業や人々、そして国々が誰に頼まれたのでもなく、また誰に強制きれたわけでもなく、独自の判断に基づいた選択の結果として失調し、破綻する。
そのせいで、経済活動が全体として激しく、暴力的に収縮する。
そのプロセスを、今、我々は目の当たりにしている。
この有様を「危機」の二言い方で片づけるのは、どうも生易し過ぎる。
大変なことはもう起こっているのだ。
しかもその大変なことは降って湧いたように外からやって来たわけではない。
人々の内発的な行動がそうした事態をもたらしている。
この状態を表現するには、もう一息踏み込んだ言葉が必要だと思う。
恐慌という言葉は、英語のパニック(己亘の)に対応する言葉だ。
だが、パニックよりは恐れて慌てること思い浮んだ言葉が、「恐慌」だった。
この言葉が持つ経済力学上の意味については、改めて検討したい。
それはひとまずおくとして、まずは、やはり辞書で「恐慌」を引いてみると、そこには「恐れて慌てること」とある。
シンプルだが、言い得て妙である。
恐れ慌てる。
精綴な定義はさておき、これほど、二○○八年秋以降の展開にぴったりな表現はないだろう。
この間、世界中の銀行、投資家、そして市民たちがまさしく恐れに駆られ、まさしく慌てふためいた。
国々の政府も恐れ慌遥かに上質な表現力に満ちている。
経済という名の生き物がいかに兇暴な側面を持っているか。
経済が牙を剥いた時、いかに人々が戦々恐々として周章狼狽するか。
「恐慌」の字面から、実によくそのイメージが伝わって来る。
この戦々恐々と周章狼狽が地球規模で広がっていく。
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